2017年01月08日

12月11日 「時がくれば実現する神のご計画」

「時がくれば実現する神のご計画」
「わたしのことばは、その時がくれば実現します。」(ルカ1:20)
 
神が求められる、みことばにたいする信仰は、「時がくれば実現する」という信仰です。先週は、「みことばは必ず実現する」という信仰について、考えましたが、ただ実現するということだけではなく、「時」も定められていることを神は告げておられます。私達が信ずるか、信じないかによらずに、告知された通りに、神は行われるのです。
 しかし、信じ受け入れた人と信じない人との神の取り扱いが大きく違ってくるのです。祭司ザカリヤは様々な状況から信じられなかった為に、ヨハネが生まれるまで、おしにされてしまいました。ことばは、神から出ていることを教えておられるかのようです。その妻であるエリサベツは「主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。」(ルカ1:45)と主を大声でほめたたえました。マリヤも「力ある方が、私に大きなことをしてくださいました。」(ルカ1:49)と主を賛美しました。
 ザカリヤは、子ヨハネが生まれ、名をつけるとき、ガブリエルが告げた通りに「ヨハネ」と知らせた時、口が開け、舌は解けものが言えるようになり「古くから、その聖なる予言者たちの口を通して、主が話してくださったとおりに」(ルカ1:70)と主を褒めたたえました。
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12月4日 「牧者ダビデ」

「牧者ダビデ」
 「私は良い牧者です。」(ヨハネ10:14)
 「わたしの口からでるわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰ってこない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送ったことを成功させる。」(イザヤ55:11)
 聖書を通して語られる神は、昔から、民を励ます時、この御言葉にあるように、一度、口から出た言葉は、必ず「成功する」ことを示して来られた。
 預言者イザヤを通して神は、救い主を遣わされることを、語って来られました。この「ことば」が語られた時の状況は、イスラエルの国の存亡の時でした。北イスラエルが罪によって、神のさばきを受けた時、アッスリアの国から攻撃され、占領されてしまいました。アッスリアの国はその勢いで、ユダ王国にも攻め上って来たのです。ヒゼキヤ王は、預言者イザヤに祈ってくれるように要請しました。主は応えられ、主の御業を信じて待つように命じました。民はそこに神の奇跡を見たのです。
 その民に向かって、神に永遠の牧者ダビデを起こすことを告げられたのです。私たちは、王としてのダビデのイメージは強いのですが、神は、牧者としてのダビデを表しました。確かに、ダビデは羊飼いでもあったのです。
 その告げられたことばが、七〇〇年後、イエス様のお生まれによって実現したのです。イエス様は「私は良い牧者です。」と告げられた時、イザヤの預言に示されている「牧者ダビデ」であることを明らかにされたのです。
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11月20日 「信仰は暗号文を解くカギ」

「信仰は暗号文を解くカギ」  
「あなたがたには、天の御国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていません。」(マタイ一3:11)
  
 敵に見破られずに、味方に重要な連絡をする方法に、暗号文を用いることがあります。戦争時代だけではなく、今も健在です。大統領選でクリントン氏のメール問題が微妙に選挙の勝敗に影響を与えたともいわれています。
 メールの内容が公表されてしまったのです。
 聖書も神が伝えたいと考えている人に、正しく伝えるために用いられていますが、目にする人は、主の働きを妨害する敵もいるのです。そのために、
 イエス様は、「たとえ」を用いて話されました。弟子たちも、そのたとえ話が理解出来ませんでした。そこで、イエス様に問いました。その時、イエス様は、天の奥義を知ることが許されていない人がいることを伝えました。
 イエス様は、弟子たちにはその意味を解かれました。使徒ペテロも「聖書の預言はみな、人の私的解釈をほどこしてはならない。」(Uペテロ1:20)
 と忠告しています。「無知な心定まらない人たちは、聖書の他の箇所の場合もそうするのですが、それらの手紙を曲解し、自分自身に滅びを招いています。」(Uペテロ3:16)とも注意しています。
 それでは、正しく受け取るために必要なものは、何でしょうか。それは信仰によって与えられている助け主が導いてくださるのです。
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11月13日 「信仰の目線」

「信仰の目線」  
「あなたは自分は富んでいる、豊かになった、、乏しいものはなにもないと言って実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で裸の者であることを知らない。」(黙示録3:17)
 先日、ベレヤ会の証しの時、ある姉妹がスカイツリーに上った証をされました。「高い展望台から、はるか下に見える町並木や人々の動きを見ていると、神様は地上にいる人々を一人一人見て、対応されていることを思うと神様を畏れました。」と証されました。
 「信仰」は神の目線ですべてを見る事なのです。目で見ることができるものから、見えない心や価値観、真理や霊的なことまで、私達が生きることに必要なものすべてを、神の目線で見る事が「信仰」なのです。それは、聖書の御言葉を通して、見ることです。
  イエス様は、ある日、人々をご覧になった時、「羊飼いのいない羊のように弱りはてて、倒れている彼らをかわいそうに思われた。」(マタイ9:36)
 これがイエス様の見ておられるところです。また、神の目線なのです。預言者エゼキエルを通して、同じ姿を神は見ておられることを、語られています。エゼキエル書33、34章に詳しく語られています。「彼らは牧者がいないので散らされ、獣の餌食となり・・・・」それ故、神は牧者すなわちダビデを起こす。彼は彼らを養い、彼らの牧者となる。」この牧者こそイエス・キリストなのです。教会はこのイエス様の目線で世を見なければなりません。
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11月6日 「牧者を迎えるにあたって」

「牧者を迎えるにあたって」
「あなたの神、主の選ぶ者を、必ず、あなたの上に王としてたてなければならない。」(申命記17:15)

 教会の牧者として、教会が迎えるためには、聖書を通して、神は私達を導いておられます。イスラエルの民が約束の地に入っていく前に、神は、語っています。

1. 神、主の選ぶ者を同胞の中から立てる。外国の人はふさわしくない。
2. 王は自分のために決して馬を多く増やしてはならない。二度とこの道を帰ってはならない。
3. 自分のために金銀を非常に多くふやしてはならない。
4. 自分のため、このみ教えを書き写して、自分の手元に置き、一生の間読まなければならない。それは、彼の神、主をおそれこのみおしえの全てのことばとこれらのおきてを守り行うことを学ぶためである。
5. それは、王の心が自分の同胞の上に高ぶることがないため、また、命令から、右にも左にもそれることがなく、彼と子孫とがイスラエルのうちで、長くその王国を治めることができるためである。
 これが申命記において、神がイスラエルの民に語られた王の迎え方です。
新約において、教会ごとに立てられる牧者にも適用されるものです。「神が選ばれた者」を迎えることが第一の条件です。
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10月30日 「魂の癒し」

「魂の癒し」
「まことに、彼は私達の病を負い、私達の痛みをになった。」
(イザヤ53:4)
  先日、電通の社員が、残業の多さに耐えきれなく、病気になり、自殺に追い込まれた痛ましいニュースが報道されました。また、東電の課長が激務のため、自殺していたことも報道されていました。私達は、体も心も限界があります。耐えられないほどに要求され逃げ場を失ない、助けもない状態に置かれる時、私たちはどうすれば良いのでしょうか。
 聖書の神―イエス・キリストは、そんな私達を、憐み、病や痛みを担って下さるのです。
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしはあなたがたを休ませてあげます。わたしは、こころ優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば魂に安らぎがきます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」(マタイ11章28〜30)
 私達に必要ないやしはたましいのいやしです。わたしたちの生きる力は、たましいにあるのです。そして、たましいは神につながることで、健全に生きることができるのです。しかし、残念なことに、人のたましいは、罪によって、神から遠く離れているのです。イエス・キリストはこの罪を処罰してくださったのです。そして再び神に結び会してくださったのです。
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10月16日 「大牧者イエス・キリスト」

「大牧者イエス・キリスト」
「わたしは良い牧者です。良い牧者は羊のためいのちを捨てます。」(ヨハネ10:11)
  
私達の信仰は、イエス・キリストを牧者として信じ、従うことです。ですから、イエス・キリストがどういう方であるかに全てはかかっているのです
その為に、イエス様を知りましょう。

1. イエス・キリストは良い牧者です。
 羊の囲いの門から入ります。
門番は彼のために門を開きます。羊は、その声を聴き分けます。彼は自分の羊をその名で呼んで連れ出します。すると羊は彼の声を知っているのでついていきます。しかし、他の人には決してついていきません。
 良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。
わたしはわたしのものを知っています。また、わたしのものは私を知っています。

2. イエス・キリストは羊の門です。
 イエスを通って入るものは救われます。また、やすらかに出はいりし、牧草を見つけます。
 羊がいのちを得、またそれを豊かに持つために導かれます。羊の所有者でない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げて行きます。
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10月9日 「あわれみ深い主」

「あわれみ深い主」
「わたしはあわれみを好むが、いけにえは好まない。」(マタイ九:一三)
  
 神は旧約の時代から、「あわれみ深い神」として、イスラエルの民に語ってこられました。
「その愛とあわれみによって、彼らをあがない、昔からずっと、彼らを背おい、抱いてこられた。」(イザヤ六三:九) 
「神よ、御恵みによって、私に情けをかけ、あなたの豊かなあわれみによって、私の罪をぬぐいさって下さい。」(詩篇五一:一)
 イスラエルの民は、主の憐みによって、神の民とされたのです。そして、律法が与えられ、幕屋が建てられ、祭壇が設けられたのは、民の罪をあがない、神と共に歩むためでした。神は罪人を退けたのでなく、常に招いておられたのです。
しかし、民は、時間の経過とともに、犠牲を捧げることが主に喜ばれることであると考えるようになってしまったのです。その民に向かって、神は預言者を通してみこころを告げられました。「主はなにをあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行い、誠実を愛し、へりくだって、あなたの神とともに歩むことではないか。」(ミカ六:八)また、イエス様も「律法の中ではるかに重要なもの、すなわち正義もあわれみも誠実もおろそかにしているのです。」(マタイ二三:二三)と語っておられます。
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10月2日 「継続する信仰」



「継続する信仰」
「あなたがたのために絶えず祈っている。」(Uテサロニケ一:一一)
 神が私達に与えて下さった信仰は継続する信仰です。イエス様を救い主と信じたならば、常に信じ続けることが要求されます。そして、語られたことは、必ず実現すると信じ、神に従うことを求められます。
会堂司ヤイロはこの信仰によって、大きな恵みを主イエスから頂きました。
@ ヤイロは勇気をもって、イエスの御前で自分を低くした。
大勢見ている前で、イエスの御前で、ひれ伏してお願いしました。会堂司の手前、大勢の人々に知られていました。
「会堂司」は、町々に礼拝する場所であり、普段は学校としての役目をになっていました。ヤイロはそこの管理者でした。
A ヤイロは熱心に願った。
娘が死にかけていました。
B ヤイロは、イエス様は救い主であると信じていました。たとえ死んでも生かして下さる方であると信じていたのです。
C 途中、失望することがあっても、イエスに励まされて、信じ続けたのです。
大勢の人に囲まれて、早く進むことが出来なかった。その上、長血を患った女性の癒しのために、手をくれになったのです。しかし、イエスに対する信仰はなくならなかったのです。
D その結果、イエスの御業によって、娘は生き返ったのです。
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2016年09月26日

9月25日 「罪赦される信仰」



「罪赦される信仰」
「主のみ名を呼び求める者は、だれであっても救われる。のです。」
(ローマ一〇:一三)

  罪が赦された中風の男性の信仰はどんなものだったのでしょう。
一、 熱心に求める信仰。
 彼は動くことができません。そこで、同じ信仰をもっている仲間に手伝っていただき、寝ているままの姿で、イエス様のところに運んでもらいました。
二、 障害を乗り越える信仰
 イエス様には、大勢の人々が取り巻いて近づくことができません。そこでかれらは、諦めないで、屋根からロープを使って、つりおろしました。
三、 罪を認める信仰
 イエス様は彼らの信仰を見られて「あなたの罪は赦されている。」と告げられた。彼らは神の御前で罪を認め、その赦しを願っていました。すなわちイエス様を神の子として信じ、救って下さる方である信仰をもって御前にでました。
四、 信仰が正しいものであることを、体の癒しによって証明された。
 パリサイ人や律法学者は、イエス様を罪を赦す権威は持っておられないと考えていました。これまででも、同じ中風の人をイエス様は癒しておられたことは、パリサイ人は知っていましたが、信仰がなかったのです。
posted by sbbc at 16:30| メッセージ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする