2017年04月23日

4月23日 「いのちの水」



「いのちの水」
 「私が与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」(ヨハネ4:14)
  水は、私達のいのちがたもたれるためには、どうしても必要です。しかも毎日、必要です。貯めておくことは出来ません。これから、熱中症対策のため、水を飲むように勧められています。このことを考えますと、荒野の旅していたイスラエルの民が支えられたことは、まさに奇跡です。
その為に、主は、どんなにこころを使われたことでしょう。彼らは、乾きで死んだ者は一人もいませんでした。このこたは、今の私達に何を与えようとしているのでしょう。
  イエス様が、ヤコブの井戸で、サマリヤの女性を救いに導かれた時、イエス様が与える水は、永遠のいのちへの水であり、決して乾くことがないと話されました。イエス様は民数記20章の出来事を念頭においておられたのは明らかです。
  パウロもまた、Tコリント10:4で「みな同じ御霊の飲み物を飲みました。というのは、彼らについてきた御霊の岩から飲んだのです。その岩とはキリストです。」と説明しました。このことから、イエス様が与える
水は、聖霊であり、聖霊はみことばによって、救われた人々に永遠のいのちへの水となるのです。そして、それは、一時的でなく、毎日わたしたちを潤してくださるのです。約束の地に入るまで与え続けてくださるのです。
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2017年04月16日

4月16日 「イエスの復活と私達」



「すなわち、アダムにあって、すべての人が死んでいるように、キリストによって、すべての人が生かされるからです。」
(Tコリント15:22)

  キリストの復活を信じることは、御霊なる神の御業によるのです。コリントの教会の人々の中に、復活を信じない人がいたのです。また、パウロが伝道したアテネでは、「死者の復活のことを聞くと、ある者たちは、あざ笑い」(使徒17:32)と記されています。また、ユダヤ人の中のサドヵイ人に属する人は、復活を信じていませんでした。(マタイ22:29)
  ですから、現在、復活を信じられない人がいても不思議なことではないのです。神の御業によらなければ受け入れられないのです。イエス様もペテロに対して、「このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。」(マタイ16:17)と語られました。あなたは信じていますか。信じている方は、天におられる父なる神が示してくださったのです。
  イエス様の復活は、私達に勝利を与えて下さったのです。初穂として、よみがえられ、天にある祭壇に捧げられたのです。そして、キリストに属する者が、キリストの再臨のラッパが響くときよみがえるのです。そして、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るのです。
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2017年04月09日

4月9日 「上げられたへび」



「上げられたへび」
 「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまたあげられなければなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」(ヨハネ3:14、15)

  イエス様は、ご自身が十字架にかかる意義とその力を、旧約聖書の民数記二一章の事象を引用されて、話されました。
  この記事は、アロンを失って悲しみの中にあったモーセに対して、イスラエルの民が、神とモーセに逆らって、「なぜ、あなたがたは、私達をエジプトから連れ上って、この荒野で死なせようとするのか。パンもなく、水もない。私達はこのみじめな食物に飽き飽きした。」と言った。神は、燃える蛇を送られ民を裁かれました。民は、悔い改めて、蛇を取り去って下さるようにモーセに祈りの要請をしました。モーセは謙遜な人だったので、すぐ、主に祈りました。主は応えられて「あなたは、燃えるへびを造り、それを旗竿のうえにつけよ。すべてかまれた者は、それを仰ぎ見れば生きる。」と語られました。さっそく、モーセはへびを造り、旗竿のうえにつけました。かまれた人でも信じて、蛇を仰ぎ見ると生きたのです。神の約束通りだったのです。
  同じように、十字架にあげられたイエス・キリストを神が送られた救い主として、信じる者は永遠のいのちを持つのです。
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4月2日 「キリストのご計画」



「キリストのご計画」
 「聖く、傷のないものとなった、栄光の教会を、ご自分の前に立たせる
ためです。」(エペソ5:27)

  主が共にいてくださる恵みを、神はイスラエルの民を通して、私たちに
 表してくださいました。その完成は、イエス・キリストを通して、教会を建てあげる事です。
 その教会の姿はどういうものでしょうか。
一、 聖なるもの(エペソ5:26) 
聖なるものとは、御言葉が隅々まで、行き届き、実現することです。
御霊の実を結んでいる姿です。
二、 キリストに従う教会のです。(エペソ5:24)
三、 まことの礼拝が捧げられている教会。(エペソ5:19)
詩と讃美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また讃美する教会。
四、 神に感謝が捧げられている教会。
五、 互いに従っている教会。
六、 主の御心がなんであるか、よくよく注意して、機会を十分生かして用いている教会。
主イエス・キリストはこのために、命を捧げて下さったのです。
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2017年03月26日

3月26日 「共に歩まれる主」



「モーセは主の命によって、パランの荒野から彼らを遣わした。」
(民数記13:3)
 主が共に歩まれる恵みを、旧約聖書を通して新約時代に生かされている我々に神は繰り返し繰り返し語って下さっています。神はイスラエルの民に「主が共にいる」ことを信じる信仰を訓練されたのです。
試練にあった時、旧約聖書を読みましょう。信仰の勇気が与えられるでしょう。
 エジプトを脱出したイスラエルの民は、群衆にすぎなかったのです。秩序もなく、モーセに従い、約束の地を目指していました。しかし、シナイ山で神は、ただの群衆でしかなかった民を、秩序ある主の国民として整えたのです。第一に幕屋を建てることで、主なる神を、目に見えるようにされました。
新約に生きるキリスト者のために、イエス様を与えたように、雲の柱と火の柱を与えられたのです。約束の地へ安全に到着するために、主は共に歩まれたのです。途中は、危険でいっぱいでした。行くてを阻む敵がいます。またそれを避けようとすれば、荒野が待ち受けています。水もなく、食べるものをない中を旅することは死を意味します。今までの常識では、一日も生きていることは出来ません。共に歩んで下さる主だけが頼りです。いろいろな戦いはありましたが、二年かけて、無事、約束の地の入口まで来ることが出来ました。彼らは約束の地の素晴らしさを見ました。
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2017年03月19日

3月19日 「教会の原点」



「教会の原点」
「その所でわたしはイスラエル人に会う。そこはわたしの栄光によって聖とされる。」
(出エジプト二九:四三)

 イエス様が考えておられる教会はどのような姿なのでしょうか。自分にとって教会はどれほど重要なのでしょうか。それを知るためには、さかのぼって神殿さらにイスラエルの民の形成に重要な役割をした幕屋を見ることによって理解できます。
一 救いの目的
   彼らの間に住むために、彼らをエジプトの地からつれだした者であることを知るようになるため。
(出エジプト二九:四六)
二 幕屋が造られた目的
   その所で私はイスラエル人に会う。そこは、わたしの栄光によって聖とされる。
(出エジプト二九:四三)
三 幕屋を造る方法
   あなたに示すのと全く同じ様に作らなければならない。
(出二五:九)
   よく注意して、あなたが山で示される型どおりに造れ。
(出二五:四〇)
四 神と人との交わりの手段
   彼らが、わたしのために聖所を造るなら、わたしは彼らの中に住む。(出二五:八)
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2017年03月12日

3月12日 「失望からの脱却」

 

「失望からの脱却」
 「外に出て、山の上で主の前に立て。」(T列王一九:一一)
この季節、新しい年度を迎え、卒業や入学、社会へ出ていく準備をします。
希望にあふれることばかりではなく、失望もあり、そこからいかに脱却し
力を得て、先に進まなければなりません。
預言者エリヤの経験から学びましょう。
一、 エリやは失望しました。
彼は、主のために熱心に働きました。しかし、事態は良くなるどころか
  ますます悪くなる一方でした。多くの預言者が王によって殺され、エリヤの命さえ、狙われたのです。彼はいのちを守るために外国まで逃げなければなりませんでした。その旅の途中、失望落胆し、主に不満をぶっつけたのです。そして「いのちを取ってください」と言ったのです
二、 しかし、主は御使いを送り、支えたのです。
主なる神はずっとエリヤを見守っておられました。エリヤが、自分の預言者としての力のなさを嘆きました。以前の偉大な預言者のようではないのだからと落ち込みました。そんなエリヤにそり添うように御使いは共に歩んでいたのです。全てあなたの事は解っていると言っているかのように、ただ何も言わずにそっと、水と食べ物を準備し、元気になるまで、見守りました。
 三、神の山まで、支え、主の前に立つことが出来るように整えました。
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2017年03月10日

3月5日 「礼拝の原点」



「礼拝の原点」
 「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクを捧げなさい。」(創世記22:2)

教理問答書に、「人の目的はなんですか。」という問いに対して「神を礼拝することです。」と答えているように、礼拝は神が求めておられる最も大切な信仰における行いです。
 アブラハムの信仰における最も神が喜ばれた証しは、モリヤの山でイサクを捧げ、神を礼拝する姿でした。ここに、礼拝の原点が示されています。
一、 神の呼びかけに応える。「はい、ここにおります。」
二、 神が示される場所に行く。「モリヤの山」
三、 神が求められる捧げ物を携え、捧げる。
四、 アブラハムが最も愛しているものイサクを要求された。
五、 イサクは約束の子であった。しかも、ひとり子である。相続する者は他にはだれもいない。
六、 彼は、神を恐れる事を第一に、行動し、神の約束を決して疑わない信仰によって、「主の山には常に備えがある」ことを信じ続けた。
七、 信仰の勝利によって、神の大いなる祝福を受ける。

「あなたの子孫を海辺の砂のように数多く増し加えよう。あなたの子孫は、その敵の門を勝ち取るであろう。」(創世記22:17)
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2月26日 「全て主の栄光のために」

※2/26 録音はありません。
「全て主の栄光のために」
 「それは、あなたが『アブラムを富ませたのは私だ』と言わないためだ。」(創世記14:23)

 私達の目は常に主に注がれているでしょうか。また、全ての栄光を主に帰しているだろうか。
 アメリカ合衆国大統領トランプ氏が自分の働きを自画自賛している姿が世界を駆け巡っています。世界各地で批判のデモが行われている中で、本人は、自分の業績を誇らしげに語っている姿をみなさんはどう思われますか。
 アブラハムは、人々の目が常に主に向くように注意深く行動しました。
皆さんのアブラハムのイメージはどのようなものでしょうか。信仰深く、温厚な羊飼いのイメージを持っておられる方は多いのではないでしょうか。しかし、甥のロトの救出のとき、彼は愛からくる勇敢さを見せました。
 ソドムや周辺の町の王たちを、破った北方の大軍を命をかけて約四〇〇キロも追跡し、奪われた人々や物資を全て取り戻したのです。それ程、家族思いで、勇敢でした。後にも先にも戦ったのはこの戦いだけでした。信仰者は時として神の力で勇敢に行動しなければなりません。アブラハムは主のために戦いました。この戦いの勝利は主によることを知らない人々に、アブラハムは、力づよく証しました。「私が、仕える神は、私に力を与え、守り、富まして下さる方である。だから、私はあなたの物は何もいただきません。」
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2017年03月03日

賛美練習 聖歌389 ねがわくは神 伴奏

賛美練習の為の伴奏を録音しました。
自宅練習用にご活用ください。

ソプラノ


アルト


テナー


バス


伴奏全パート
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2月19日 「伝道者の働き」

※2/19 牧師は幕張教会の宣教集会の奉仕に出かけていたためメッセージの録音はありません。

「伝道者の働き」
 「パウロはみことばを教えることに専念し、イエスがキリストであることを、ユダヤ人たちにはっきりと宣言した。」(使徒18:5)

 パウロの働きは、聖書に詳しく書かれています。まだ福音が語られていない所に福音を伝え、教会の土台を据える事でした。そこには、まだ、その働きのための協力者はおりません。パウロはあらゆる手段を使って働きました。ある時は、自分の手の職で、働きながら生活の必要を満たしました。また、ある時は、前の教会からの支援で、生活を支えました。ある時は、アクラのような助け手を神は与えパウロを支えました。弟子たちの働きで、支えられ、本人はみことばを語ることに専念したのです。
 エルサレムの教会では、使徒ペテロたちが、祈りとみことばに仕えることに専念するために、信徒から執事が選ばれました。このように、教会は御言葉が宣べ伝えられることを最優先できるために、あらゆる方法を用いたのです。伝道者は働く者、信徒は支える人と分けられているのではありません。
教会を建てあげるために、持てる物を最大限に使って主の働きに参与するために、神は私達を集めて下さったのです。
 伝道者は、その為に全てを用います。伝道者はみことばを宣べ伝えるために訓練を受けます。教会はその働きがよりよくできるために、伝道者を支えます。一分でも多くその時間を確保出来るように配慮
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2017年02月16日

2月12日 「神のご計画」


「神のご計画」
 「あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。」(創世記12:1)

 先週の総会において、ニュータウン教会の働きを私が断念することを、申し出ました。今まで、独立を目指して祈り支援してきましたので、戸惑う方もおりましょう。そのために、主の導きを話す必要を覚えました。
 ニュータウン教会の働きは一五年に及びます。その間、伝道者をはじめ、佐倉教会も教会形成を目指して祈り、進めてきました。ですから、招聘の作業を進めていく中で、その計画を継続することが、主のみこころと信じて、私達がしばらく引き継ぎ、次の伝道者にバトンタッチできればと考えました
そうすれば、伝道者のこれまでの働きが報われると考えたのです。
 しかし、神のご計画は違う方行を示されました。アブラハムは行先を知らずに出て行きました。その時、示されたのは、ここに留まってはいけないということだけでした。また、伝道者パウロも、自分の伝道地の計画を変更しなければなりませんでした。その時の事情は、聖書には何も書かれていませんが、「聖霊によって、みことばを語る事が禁じられた。」というのです。私達は、「つくられたもの全てに福音を語る」ことを聖書の中に見ます。しかし、場合によって、禁じられることがあるのです。その時にはパウロは理由がわかりませんでしたが、そこには、綿密な神のご計画があったのです。
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2月5日 「守りの神」


「守りの神」
 「神があなたがたのことを心配してくださるからです。」(Tペテロ5:7)

 「待つ」ことは、勇気のいることです。私達は、伝道者の応えを待っています。その間、いろいろなことを考えさせられます。「待つ」ためには信仰が試みられます。
 聖書の中に、「待つ」ことで、勝利を得た人もおり、失敗した人もおります。イスラエルの最初の王として立てられたサウルは、預言者サムエルのことばを信じて待つことに失敗しました。その結果、王の座から引きずり降ろされました。(Tサムエル13:13、14)
戦いに出る時、祭司によって、祭壇に捧げ物をしてから出発することになっていたのですが、サムエルが七日待つように告げていたのですが、目の前の敵を恐れて、七日目にサムエルに代わって、してはならない捧げ物をサウルは捧げたのです。そして、捧げ終わった時、サムエルが来たのです。サウル王はサムエルを待てなかったのです。その結果、自分だけではなく、家族すべてに主の祝福から退けられたのです。
ノアは、主の声を待ちました。雨が上がっても、鳩が帰って来なくなっても、地が乾いたことがわかっても、箱舟から出ることはなかったのです。
「出なさい。」との声を聴いて、ノアは箱舟から出たのです。自分の判断に頼ることなく、「入る」のも、「待つ」のも「出る」のも主の声に従うのです。
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2017年02月04日

1月29日 「伝道者のこころ」



「伝道者のこころ」
「私はあなたがたのたましいのためには、大いに喜んで、財を費やし、また私自身をさえ使い尽くしましょう。」(Uコリント12:15)

 教会は新しい牧師をどのようなこころぞなえをして迎えれば好いのでしょうか。伝道者パウロは、教会の土台を据える働きをしました。何もない所から、福音を伝え、救われた人々を集めて、教会の土台を築きました。その時、様々な困難に遭遇しました。その中でも、教会が伝道者を支えることが出来るように心を砕きました。
 そのために、伝道者の思いを知らせました。パウロは、教会すなわち教会の人々のたましいのために、持てる全てを使っていることを伝えました。その信仰は「受けるよりは与える方が幸いであると言われたみことばを思い出すべきことを、私は万事につけ、あなたがたに示して来たのです。」(使徒20:35)の実践でした。彼は、文字通り全てを主に捧げました。結婚もしないで、家庭も持たず、定住しないで、建てあげた教会も主にゆだねて、敵のいるまっただ中に飛び込んでいきました。そして、最後は囚われの身になり、自由も捧げ、最後に命をも捧げたのです。
 マケドニアのキリスト者は、そのパウロの姿を見て、貧しさにもかかわらず、喜んで、持てる者をもって、力以上に、聖徒たちを支えたのです。伝道者を支えることは、大切な伝道の働きなのです。
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1月22日 「神と共に歩むノアの恵み」

「神と共に歩むノアの恵み」
 「あなたとあなたの全家族は箱舟に入りなさい」(創世記7:1)

人は地の面にふえ、その悪は地にはびこり、世は乱れて、暴虐が地に満ちた時、悲しみの神の御目は義人を求めて、地上をくまなく見まわされ、あわや、暗く閉ざされようとした時、ノアの姿に辛くもその愁眉は開かれたのです。ノアなかりせば・・・いや、それ以上にこのたった一人のノアを認めたもう神なかりせば・・・と感慨深いものがあります。
もとより、ノアがただしく、かつ全き人であったと言われているのは彼が神のごとく一点の曇りも、欠けもなかったということではありません。ただ、彼が意識する限り、責められるところがないように、努めたということです。彼の目は恥ずべきことをして、下を向いたり、ひそかな、いやしい野心をもって周囲を盗み見したりしないということです。彼の人生の姿勢は真っすぐに神に対して、その瞳には神の正義が映っていたということです。あの当時、義人はノアのみでした。さらば、今日、主の御目をお喜ばする者は、はたして何人いることでしょうか・・・・。
イエス・キリストは、主の日はノアの時と同じようですと告げられました
 また、その時「地上に信仰が見られるでしょうか。」と心配されています。
 ノアは箱舟を造る恵みに預かりました。その、箱舟によって、救われたのです。これは「教会に集めよ」との恵みのメッセージです。
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2017年01月16日

1月15日「人の原点」



{人の原点}
「神は人をご自身のかたちとして創造された。」(創世記1:27)

 今日、腐敗し、乱脈をきわめ、日に日に殺伐となり、時には耐えきれぬような環境の中にあって、かつてのエデンの園を思うことは、無用な時代錯誤と言われますか・・・。
 いえ、いえ、決してそうではありません。本来、人間はその創造の当初には、かくも神によって素晴らしい世界に住まわされていたという事をわきまえるとき、世界の現状に観念してしまう無気力と頽廃とから、自らを引き上げうるのです。私共は、かつて園の中を歩まれる創造主と直接交わりを有していたのです。
 人間は今あるべき状態にいないということ、このことを、まず認識することによって、現状を打開し、本来の人を回復する目的と意欲と希望とを掻き立てられるのです。
 いや、神こそすでに回復の手を打っておられたのです。あの堕落の瞬間から、救い主のお約束は直ちに与えられていたのです。その実現のために、主は十字架にかかられ、いのちを捧げて下さったのです。そして、復活され、教会の頭として、キリスト者を神のかたちへと導いておられるのです。
 ですから、そのために、私達は覚悟して教会の中での言動に心を配らなければなりません。自分自身に流されてはならないのです。
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2017年01月08日

1月8日 「勝 利」



「勝 利」
「子供たちよ。あなたがたは神から出た者です。そして彼らに勝ったのです。あなたがたの内におられる方が、この世のうちにいる、あの者よりも力があるからです。」(Tヨハネ4:4)

 今年のカギの句は「キリスト者は勝利した者」です。
使徒ヨハネは、「勝利」ということばを多く使用しています。特に、手紙においてキリスト者を励ましています。その根拠は、キリスト者のうちにおられるイエス様が全てに勝利された方であることです。
 イエス様は何に勝利されたのでしょうか。

1.罪に勝利された。
「私達の大祭司は・・罪を犯されませんでしたが・」(へブル4:15)

2.悪魔に勝利された。
「すると悪魔はイエスを離れていき、見よ、御使いたちが近づいて来て仕えた・」(マタイ4:11)

3.死に勝利された。
「神は、この方を死の苦しみから解き放って、よみがえらされました。この方が死につながれていることなど、ありえないからです。」(使徒2:24)

このキリストがわたしのうちにいて下さることを信じましょう。
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2017年1月1日 「新しい出発」



「新しい出発」
「主ご自身があなたの先に進まれる。主があなたとともにおられる。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。恐れてはならない。おののいてはならない。」(申命記31:8)

新年明けましておめでとうございます。
   旧年中はお世話になりました。今年もよろしくお願いします。皆様が祝福されるよう主に祈ります。
  
  二〇一七年が始まります。教会も主に期待して歩み始めます。
 申命記には、イスラエルの民が、約束の地に入る準備をしている記録が書かれています。不信仰によって、民は約束の地に入ることにつまずいて、四〇年の荒野の旅を主から強要されたのです。その宣告通り、四一年目の正月を迎えたのです。主なる神は、約束通り、丁度四〇年間の贖いの日を終わらせ、民を約束の地カナンに入らせるのです。
  新しい指導者として、モーセに従ってきたヨシュアを主からいただき、信仰によって、ヨルダン川を一糸乱れなく、主の御命令に従って、ヨルダン川を渡ったのです。そこには、期待と不安があったでしょう。主は、何回もヨシュアを励ましています。私達も新年、主に期待して、主の御命令に忠実に従っていくところに、主の祝福があります。
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12月18日 「主イエス・キリスト生まれたもう」

「主イエス・キリスト生まれたもう」
 「かれらがそこにいる間に、マリヤは月が満ちて、男子の初子を産んだ。」
(ルカ2:6、7)
 福音書を書いたルカは、医者で、宣教者パウロの働きを最後まで助けた伝道者でした。また、ギリシャ人であり、学識のある者でした。この福音書と使徒の働きは、当時の高官であったテオピロにキリストを正しく伝えるために書きました。それは、テオピロが聞いていたことが、真実であることを伝えました。最新の注意を払い、よく調べて、順序よく書くことに努めました。
 ですから、出来事が真実であることを示すために、当時の人物像、時期を詳しく書きました。この福音書を読んだ多くの人々は、この時代の事柄を知っている人々でした。神の御業は不思議に思えることがほとんどですが、書かれている状況が正確なので、信じることを助けました。
 キリストの御降誕は、その中でも最も不思議な出来事です。しかし、事実として、ルカは詳しく伝えました。
1.預言されていた通りにお生まれになられた事 2.道ぞなえとしてのヨハネの誕生 3.ダビデの子としてお生まれになられた事 4.お生まれになる時と場所ベツレヘムを明確に記したこと 5.お生まれになられたことの証しのために羊飼いに伝えられたこと 6.羊飼いによって、多くの人々に伝えられたことなどを詳しく書き、神の御業であることを記しました。
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12月11日 「時がくれば実現する神のご計画」

「時がくれば実現する神のご計画」
「わたしのことばは、その時がくれば実現します。」(ルカ1:20)
 
神が求められる、みことばにたいする信仰は、「時がくれば実現する」という信仰です。先週は、「みことばは必ず実現する」という信仰について、考えましたが、ただ実現するということだけではなく、「時」も定められていることを神は告げておられます。私達が信ずるか、信じないかによらずに、告知された通りに、神は行われるのです。
 しかし、信じ受け入れた人と信じない人との神の取り扱いが大きく違ってくるのです。祭司ザカリヤは様々な状況から信じられなかった為に、ヨハネが生まれるまで、おしにされてしまいました。ことばは、神から出ていることを教えておられるかのようです。その妻であるエリサベツは「主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。」(ルカ1:45)と主を大声でほめたたえました。マリヤも「力ある方が、私に大きなことをしてくださいました。」(ルカ1:49)と主を賛美しました。
 ザカリヤは、子ヨハネが生まれ、名をつけるとき、ガブリエルが告げた通りに「ヨハネ」と知らせた時、口が開け、舌は解けものが言えるようになり「古くから、その聖なる予言者たちの口を通して、主が話してくださったとおりに」(ルカ1:70)と主を褒めたたえました。
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12月4日 「牧者ダビデ」

「牧者ダビデ」
 「私は良い牧者です。」(ヨハネ10:14)
 「わたしの口からでるわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰ってこない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送ったことを成功させる。」(イザヤ55:11)
 聖書を通して語られる神は、昔から、民を励ます時、この御言葉にあるように、一度、口から出た言葉は、必ず「成功する」ことを示して来られた。
 預言者イザヤを通して神は、救い主を遣わされることを、語って来られました。この「ことば」が語られた時の状況は、イスラエルの国の存亡の時でした。北イスラエルが罪によって、神のさばきを受けた時、アッスリアの国から攻撃され、占領されてしまいました。アッスリアの国はその勢いで、ユダ王国にも攻め上って来たのです。ヒゼキヤ王は、預言者イザヤに祈ってくれるように要請しました。主は応えられ、主の御業を信じて待つように命じました。民はそこに神の奇跡を見たのです。
 その民に向かって、神に永遠の牧者ダビデを起こすことを告げられたのです。私たちは、王としてのダビデのイメージは強いのですが、神は、牧者としてのダビデを表しました。確かに、ダビデは羊飼いでもあったのです。
 その告げられたことばが、七〇〇年後、イエス様のお生まれによって実現したのです。イエス様は「私は良い牧者です。」と告げられた時、イザヤの預言に示されている「牧者ダビデ」であることを明らかにされたのです。
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11月20日 「信仰は暗号文を解くカギ」

「信仰は暗号文を解くカギ」  
「あなたがたには、天の御国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていません。」(マタイ一3:11)
  
 敵に見破られずに、味方に重要な連絡をする方法に、暗号文を用いることがあります。戦争時代だけではなく、今も健在です。大統領選でクリントン氏のメール問題が微妙に選挙の勝敗に影響を与えたともいわれています。
 メールの内容が公表されてしまったのです。
 聖書も神が伝えたいと考えている人に、正しく伝えるために用いられていますが、目にする人は、主の働きを妨害する敵もいるのです。そのために、
 イエス様は、「たとえ」を用いて話されました。弟子たちも、そのたとえ話が理解出来ませんでした。そこで、イエス様に問いました。その時、イエス様は、天の奥義を知ることが許されていない人がいることを伝えました。
 イエス様は、弟子たちにはその意味を解かれました。使徒ペテロも「聖書の預言はみな、人の私的解釈をほどこしてはならない。」(Uペテロ1:20)
 と忠告しています。「無知な心定まらない人たちは、聖書の他の箇所の場合もそうするのですが、それらの手紙を曲解し、自分自身に滅びを招いています。」(Uペテロ3:16)とも注意しています。
 それでは、正しく受け取るために必要なものは、何でしょうか。それは信仰によって与えられている助け主が導いてくださるのです。
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11月13日 「信仰の目線」

「信仰の目線」  
「あなたは自分は富んでいる、豊かになった、、乏しいものはなにもないと言って実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で裸の者であることを知らない。」(黙示録3:17)
 先日、ベレヤ会の証しの時、ある姉妹がスカイツリーに上った証をされました。「高い展望台から、はるか下に見える町並木や人々の動きを見ていると、神様は地上にいる人々を一人一人見て、対応されていることを思うと神様を畏れました。」と証されました。
 「信仰」は神の目線ですべてを見る事なのです。目で見ることができるものから、見えない心や価値観、真理や霊的なことまで、私達が生きることに必要なものすべてを、神の目線で見る事が「信仰」なのです。それは、聖書の御言葉を通して、見ることです。
  イエス様は、ある日、人々をご覧になった時、「羊飼いのいない羊のように弱りはてて、倒れている彼らをかわいそうに思われた。」(マタイ9:36)
 これがイエス様の見ておられるところです。また、神の目線なのです。預言者エゼキエルを通して、同じ姿を神は見ておられることを、語られています。エゼキエル書33、34章に詳しく語られています。「彼らは牧者がいないので散らされ、獣の餌食となり・・・・」それ故、神は牧者すなわちダビデを起こす。彼は彼らを養い、彼らの牧者となる。」この牧者こそイエス・キリストなのです。教会はこのイエス様の目線で世を見なければなりません。
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11月6日 「牧者を迎えるにあたって」

「牧者を迎えるにあたって」
「あなたの神、主の選ぶ者を、必ず、あなたの上に王としてたてなければならない。」(申命記17:15)

 教会の牧者として、教会が迎えるためには、聖書を通して、神は私達を導いておられます。イスラエルの民が約束の地に入っていく前に、神は、語っています。

1. 神、主の選ぶ者を同胞の中から立てる。外国の人はふさわしくない。
2. 王は自分のために決して馬を多く増やしてはならない。二度とこの道を帰ってはならない。
3. 自分のために金銀を非常に多くふやしてはならない。
4. 自分のため、このみ教えを書き写して、自分の手元に置き、一生の間読まなければならない。それは、彼の神、主をおそれこのみおしえの全てのことばとこれらのおきてを守り行うことを学ぶためである。
5. それは、王の心が自分の同胞の上に高ぶることがないため、また、命令から、右にも左にもそれることがなく、彼と子孫とがイスラエルのうちで、長くその王国を治めることができるためである。
 これが申命記において、神がイスラエルの民に語られた王の迎え方です。
新約において、教会ごとに立てられる牧者にも適用されるものです。「神が選ばれた者」を迎えることが第一の条件です。
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10月30日 「魂の癒し」

「魂の癒し」
「まことに、彼は私達の病を負い、私達の痛みをになった。」
(イザヤ53:4)
  先日、電通の社員が、残業の多さに耐えきれなく、病気になり、自殺に追い込まれた痛ましいニュースが報道されました。また、東電の課長が激務のため、自殺していたことも報道されていました。私達は、体も心も限界があります。耐えられないほどに要求され逃げ場を失ない、助けもない状態に置かれる時、私たちはどうすれば良いのでしょうか。
 聖書の神―イエス・キリストは、そんな私達を、憐み、病や痛みを担って下さるのです。
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしはあなたがたを休ませてあげます。わたしは、こころ優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば魂に安らぎがきます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」(マタイ11章28〜30)
 私達に必要ないやしはたましいのいやしです。わたしたちの生きる力は、たましいにあるのです。そして、たましいは神につながることで、健全に生きることができるのです。しかし、残念なことに、人のたましいは、罪によって、神から遠く離れているのです。イエス・キリストはこの罪を処罰してくださったのです。そして再び神に結び会してくださったのです。
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10月16日 「大牧者イエス・キリスト」

「大牧者イエス・キリスト」
「わたしは良い牧者です。良い牧者は羊のためいのちを捨てます。」(ヨハネ10:11)
  
私達の信仰は、イエス・キリストを牧者として信じ、従うことです。ですから、イエス・キリストがどういう方であるかに全てはかかっているのです
その為に、イエス様を知りましょう。

1. イエス・キリストは良い牧者です。
 羊の囲いの門から入ります。
門番は彼のために門を開きます。羊は、その声を聴き分けます。彼は自分の羊をその名で呼んで連れ出します。すると羊は彼の声を知っているのでついていきます。しかし、他の人には決してついていきません。
 良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。
わたしはわたしのものを知っています。また、わたしのものは私を知っています。

2. イエス・キリストは羊の門です。
 イエスを通って入るものは救われます。また、やすらかに出はいりし、牧草を見つけます。
 羊がいのちを得、またそれを豊かに持つために導かれます。羊の所有者でない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げて行きます。
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10月9日 「あわれみ深い主」

「あわれみ深い主」
「わたしはあわれみを好むが、いけにえは好まない。」(マタイ九:一三)
  
 神は旧約の時代から、「あわれみ深い神」として、イスラエルの民に語ってこられました。
「その愛とあわれみによって、彼らをあがない、昔からずっと、彼らを背おい、抱いてこられた。」(イザヤ六三:九) 
「神よ、御恵みによって、私に情けをかけ、あなたの豊かなあわれみによって、私の罪をぬぐいさって下さい。」(詩篇五一:一)
 イスラエルの民は、主の憐みによって、神の民とされたのです。そして、律法が与えられ、幕屋が建てられ、祭壇が設けられたのは、民の罪をあがない、神と共に歩むためでした。神は罪人を退けたのでなく、常に招いておられたのです。
しかし、民は、時間の経過とともに、犠牲を捧げることが主に喜ばれることであると考えるようになってしまったのです。その民に向かって、神は預言者を通してみこころを告げられました。「主はなにをあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行い、誠実を愛し、へりくだって、あなたの神とともに歩むことではないか。」(ミカ六:八)また、イエス様も「律法の中ではるかに重要なもの、すなわち正義もあわれみも誠実もおろそかにしているのです。」(マタイ二三:二三)と語っておられます。
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10月2日 「継続する信仰」



「継続する信仰」
「あなたがたのために絶えず祈っている。」(Uテサロニケ一:一一)
 神が私達に与えて下さった信仰は継続する信仰です。イエス様を救い主と信じたならば、常に信じ続けることが要求されます。そして、語られたことは、必ず実現すると信じ、神に従うことを求められます。
会堂司ヤイロはこの信仰によって、大きな恵みを主イエスから頂きました。
@ ヤイロは勇気をもって、イエスの御前で自分を低くした。
大勢見ている前で、イエスの御前で、ひれ伏してお願いしました。会堂司の手前、大勢の人々に知られていました。
「会堂司」は、町々に礼拝する場所であり、普段は学校としての役目をになっていました。ヤイロはそこの管理者でした。
A ヤイロは熱心に願った。
娘が死にかけていました。
B ヤイロは、イエス様は救い主であると信じていました。たとえ死んでも生かして下さる方であると信じていたのです。
C 途中、失望することがあっても、イエスに励まされて、信じ続けたのです。
大勢の人に囲まれて、早く進むことが出来なかった。その上、長血を患った女性の癒しのために、手をくれになったのです。しかし、イエスに対する信仰はなくならなかったのです。
D その結果、イエスの御業によって、娘は生き返ったのです。
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2016年09月26日

9月25日 「罪赦される信仰」



「罪赦される信仰」
「主のみ名を呼び求める者は、だれであっても救われる。のです。」
(ローマ一〇:一三)

  罪が赦された中風の男性の信仰はどんなものだったのでしょう。
一、 熱心に求める信仰。
 彼は動くことができません。そこで、同じ信仰をもっている仲間に手伝っていただき、寝ているままの姿で、イエス様のところに運んでもらいました。
二、 障害を乗り越える信仰
 イエス様には、大勢の人々が取り巻いて近づくことができません。そこでかれらは、諦めないで、屋根からロープを使って、つりおろしました。
三、 罪を認める信仰
 イエス様は彼らの信仰を見られて「あなたの罪は赦されている。」と告げられた。彼らは神の御前で罪を認め、その赦しを願っていました。すなわちイエス様を神の子として信じ、救って下さる方である信仰をもって御前にでました。
四、 信仰が正しいものであることを、体の癒しによって証明された。
 パリサイ人や律法学者は、イエス様を罪を赦す権威は持っておられないと考えていました。これまででも、同じ中風の人をイエス様は癒しておられたことは、パリサイ人は知っていましたが、信仰がなかったのです。
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9月18日 「共におられる神」

「共におられる神」
「わたしは、モーセと共にいたように、あなたと共にいよう。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない。」(ヨシュア一:五)
「恐れ」は私達の生活に大きな影響を与えます。先日、相模市の障害者施設で殺傷事件があり、社会に多大な不安を与えました。それは、「恐れ」となって生活に支障が出始めています。恐れから解放されるにはどうすればよいのでしょう。信仰に回答があります。
 ある時、イエス様は弟子の信仰のないことを指摘されました。船でガリラヤ湖を渡ろうとした時、強い風と波に襲われ、船が沈みそうになりました。弟子のペテロさんたちは、恐れに支配され、「主よ、助けください。私達は溺れそうです。」と、叫びました。恐れている弟子にしてイエス様は「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちだ。」と叱りました。この時、イエス様はどんな信仰を求めたのでしょう。
 旧約聖書のヨシュアの記事が参考になるでしょう。冒頭の聖句にあるように、恐れに支配されていたヨシュアを、主なる神は励ましました。その根拠に、「あなたと共にいる。」と語られたのです。ヨシュアは、そのみことば信じて、勇敢に立ち上がったのです。
 イエス様は同じ信仰に立つことをペテロさんに、求めたのです。それが恐れから解放される唯一の手段です。彼らは、復活の主にお会いした時から、この信仰に立って、勇敢に戦ったのです。
posted by sbbc at 16:25| メッセージ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする