2015年09月24日

週報 信仰の必要―イエスの赦し

「福音は、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じる全ての人にとって、救いを得させる神の力です。」(ローマ一:一六)
   イエス様は、神と人々の関わりを地上の王に譬えて語りました。(マタイ一八:二三)
 一、神と人は、王とその権威のもとにあるしもべの関係と同じです。
 二、王は、しもべと精算しなければならない関係です。
 三、しもべは精算すると大きな負債が残った。一万タラント(六千万デナリ)これはとても返せない額です。しかし、王は返すように命じた。
 四、僕は猶予をくれるように懇願しました。王は、かわいそうに思って、負債を免除してあげました。
 五、この僕は、その帰りに、自分が貸している仲間にあったので、一〇〇デナリ返すように迫った。少し猶予してくれるように頼んだが、聞き入れてもらえず、捕らえて牢に入れてしまった。
 六、王は、これを知り、僕を呼んで、「私が、あわれんでやったように、仲間を憐れんでやるべきではないか。」と言って、同じように牢にいれてしまった。
これが、譬え話しです。神は同じようにされます。問題は、私達は、この
赦すことができない僕と同じだと言うことです。とすれば、私達は望があ
りません。救いの為には、イエス様の贖いによる赦しが必要なのです。
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2015年09月15日

週報 ピレモンの従順―兄弟愛と赦し

「奴隷以上の者、すなわち、愛する兄弟としてです。」(ピレモン一六)
   ピレモンは、コロサイの町に住んでいる、富んでいるキリスト者でした
そして、伝道者パウロによって、信仰に導かれました。
 多分、時間がかなりたったある日、パウロがㇿ―マに囚人として、幽閉されていた時、オネシモという、コロサイ人に福音を伝えました。彼は、熱心にパウロに仕える者へと変わりました。しかし、事情を聞くと、自分は逃亡奴隷であることがわかりました。当時、逃亡奴隷は、主人に返さなければならないことが決められていました。そして、元の主人の所に帰ったとしても、どう扱われても、受け入れるしかありません。罰を受けるか、最悪の場合は、いのちの保障はありません。主人の心ひとつで決まります。
 パウロは、オネシモを失いたくはありませんでした。しかし、法律を無死することは出来ません。そこで、パウロは、ピレモンに執り成しの手紙を書きました。パウロは、ピレモンの主に従順である所に期待して、心からの執り成しを願ったのです。ピレモンを導いた者としてでなく、友としての立場から、執り成しました。しかも、前と同じ奴隷としてではなく、兄弟として受け入れてほしいと懇願したのです。
 結果はどうだったのでしょう。一世紀末のイグナティウスの手紙の中に、「エペソの監督者オネシモ」と書かれてある手紙があります。このオネシモが、その後の許されたあのオネシモの姿です。従順―すばらしいですね。
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2015年09月04日

週報 テモテの従順―子が父に仕えるように

「しかし、あなたは、私の教え、行動、計画、信仰、寛容、愛、忍耐に・・・よくついて来てくれました。何というひどい迫害に私は耐えてきたことでしょう。」(Uテモテ三:一〇、一一)
  
  子が親に反抗している姿は決して美しいものではありません。これは、
万国共通のようです。アメリカにおいては、子の人権は日本以上に大切に
取り扱われています。一三歳以下の子供を家の中で一人にしては、訴えら
れるのです。必ずベビーシッターを付けなければなりません。しかし子は
親に従順に従う責任も厳しく問われるのです。従わなければ、親が子を裁
判所に訴えることが出来るそうです。子共は裁判所に呼び出され、勧告を
受けます。ここで、問題があればカウンセラーにゆだねられるそうです。
  十戒に「父母を敬え」とあります。人間関係において、第一に大切な事
として神は命じました。その理由は、齢が長くなるためだと語られました。
 罪は、神に不従順であることです。悪魔は天使であったが、不従順となり
天から地に落とされました。アダムとエバも不従順のため、エデンの園を
追われ、死ぬ者となりました。また、イスラエルの民も不従順のため、約
束の地に入ることが出来ませんでした。それは、私達を生かすのは神であ
ることを明らかにされるのです。イエス様は父なる神に従順に従われま
した。その結果、復活され、とこしえに生きる方となられたのです。
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2015年08月28日

8月23日 週報 聖徒を支える交わりの恵み(メッセージ録音なし)

「それにしても、あなたがたは、よく私と困難を分け合ってくれました。」
(ピリピ四:一四)
  
  神が私達に求めておられることは、「心を尽くして、思いをつくし、力
を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」、「あなたの
隣人をあなた自身のように愛せよ。」です。ピリピ教会はそれを、福音を
伝えることで、神への愛を実践しました。そして、聖徒を支えることによ
って、隣人を愛することを実践したのです。ルカ伝の「良きサマリヤ人」
で知られる記事には、強盗にあった人の隣人は、同胞のユダヤ人でも、祭
司でもなく、ユダヤ人から嫌われていたが、憐みをかけたサマリヤ人でし
た。
 ピリピの人々は、自分たちに、困難の中、犠牲を払って遠くから来て
福音を伝えて下さった伝道者パウロを最大の隣人として、自分を愛する
うに愛したのです。その愛は、パウロを常に心配、心にかけ、どんな時
にも、援助することを優先したのです。「それは香ばしいかおりであって
神が喜んで受けてくださる供え物です。」と告白しました。「また、私の
神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの
必要をすべて満たしてくださいます。」と主の祝福を知らせました。
posted by sbbc at 22:34| 週報 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年08月20日

週報 教会の働きへの従順ー恵に富む者へ

「あなたがたはみな、私が投獄されているときも、福音を弁明し立証しているときも、私と共に恵みに預かった人々であり・・。」(ピリピ一:七)
  ピリピ教会は、伝道者パウロが生涯、愛し続けた教会でした。そして、
教会もパウロを初めから、殉教する最後まで、愛し続けた教会でした。ピ
リピ教会は、習うべき教会の模範です。
 パウロは、「ピリピ教会は、いつも従順であった」と証ししています。
そして、これからもそれ以上に従順であってほしいと願ったのです。
それは「救いを達成する」ことだと勧めました。その従順とは、
一、福音を広めることに従順でした。
ピリピ教会は、ヨーロッパ大陸で最初に設立された教会でした。
  福音が広まることに、常に感心をよせ、パウロの証しを聞き、祈り、パウロと共に喜んだのです。これは、パウロの伝道の働きの最後まで変わることはなかったのです。
二、神を敬うことは、伝道者を敬うことであることに従順でした。
   ローマは、ピリピからは、当時、ヨーロッパ大陸の東の端から西の端に位置します。それでも、ピリピ教会はローマに投獄されながら伝道していたパウロを心配し援助するために、エパフロデトを派遣しました。その為に病にかかり死にそうになった程です。聖徒を支える交わりの恵みに預かりたいと熱心に願い、自分自身を主にささげ、パウロにも委ねたのです。
posted by sbbc at 11:50| 週報 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

週報 従順の恵み

「すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行いなさい。」(ピリピ二:一四)
  
  今回、司門夫婦を通して、一つの恵みを頂きました。ある日、電話があ
り「子供の名前をエデイデヤと決めた」と連絡をしてきました。聖書から
とったというのですが、私は知りませんでした。聖書に一回しかでてきま
せん。ソロモン王の別名です。主がわざわざ、預言者ナタンを通して、つ
けた名だと説明されました。意味は「主が愛された者」です。以前から考
えていたそうです。私は、これを聞いた時、親として勤めが終わり、完全
に主に従う道を歩みだしたと悟りました。
  彼は、一三年間、厳しく主に取り扱われてきました。アメリカに単身で
 わたり、頼る人もなく、ただ、知っている方は主イエス様だけでした。幸
い彼は小さい時から聖書だけは、よく読んでいました。それが大いに力に
なりました。渡米してからは、「僕はエジプトに売られたヨセフだ。」と口
癖のように言っていました。苦しいときに牢獄のヨセフを思い出し、忍耐し
 主に、いつかは引き上げて下さることを信仰によって、希望をもち、歯を
 くいしばって従順に従った時、多くの人々を通して、助けを頂き、様々な
方法で救いの手が延ばされた経験をしたのです。その一つ一つの積み上げ
によって、今回、「私は、主に愛された者」と、証しが出来たのだと思い
ます。父親として、これ以上の喜びはありません。


posted by sbbc at 11:48| 週報 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

週報 望の神―主に従順に

「私はキリストが異邦人を従順にならせるため・・・・・。」
(ローマ一五:一八)
  
  息子司門から聞いたことですが、「人は希望がなければ生きていけない」
と。仕事がら様々な子供や夫婦に接するが、全く希望がない子は救え
ないと言います。箴言には「幻にない民は滅びる。」と記されています。

この希望は「夢」ではないのです。夢は人が描くものです。必ず実現す
るとは限りません。いやむしろ、実現しないものがほとんどなのではないでしょうか。
 希望は確実に実現するものなのです。実現しそうもないものは、希望と
はなりません。
 信仰―神が語られたこと(聖書)は必ず実現するという確信。
 希望―この信仰によって、神に愛されていることを知り、今と将来に希望を持つことができる。
 従順―希望を持つがゆえに、神に従うことができる。
「キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従
順を学び、完全な者とされ、神に従う全ての人々に対してとこしえの救い
を与える者となり・・」(へブル五:八、九)
posted by sbbc at 11:45| 週報 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年08月09日

7月26日 週報 忍耐と励ましの神―自分中心ではなく(音声メッセージなし)

「聖書の与える忍耐と励ましによって、希望を持たせるためなのです。」
(ローマ一五:四)
  
  息子夫婦を訪ねた時、約五〇〇キロメートル離れているグレナ先生を訪
ねました。この方は日本で宣教師として働いていた方です。八〇中半の方
ですが、ご主人を亡くされて一人で暮らしておられます。デパートで働き
三〇分ほどかけて、車を運転し教会で奉仕をしておられます。自分のため
ではなく、人の徳を高めるために神に仕えておられます。
 また、息子夫婦がよく利用している「good will」というお店が町ごとに
あります。この店は国がサポートしているリサイクル事業です。提供する
人は無料で品物を提供しますが、品物によって、減税にカウントされ、買
う人は、安く買うことが出来るのです。ほとんどの品物は一〜四ドル程度
です。多くの人が利用していました。他の人のために益をはかる精神はさ
すがキリスト教国アメリカだと感心しました。
 人はなぜ隣人の益を優先するところに、生きる喜びがあるのでしょうか。
また、他の人のために、働いている人に感動するのでしょうか。それが、
いのちの源である神の愛の営みだからなのです。パウロは言います。キリ
ストで.さえ、ご自分を喜ばすことは、なさらなかったのです。それ故、私
達は救われたのです。それが、神であるキリストの喜びなのです。
posted by sbbc at 23:52| 週報 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

週報 主が受け入れられたもの(音声メッセージなし)

「私達は、おのおの自分のことを、神の御前に申し開きをすることになります。」(ローマ一四:一二)
  
  先日、アメリカに住んでいる息子夫婦を尋ねました。アメリカは人種の
 るつぼと言われています。日曜日の礼拝に出席しましたが、東洋人は息子
 夫婦だけでした。他の国籍のある人はいません。白人のアメリカ人だけで
 した。様々な違いのある人を受け入れることが、いかに難しいことである
かを思い知らされました。
 ローマ教会においても、様々な人々が、信仰によって、加わってきました
 ローマは帝国の中心でしたから、世界のあらゆる所から集まって来ました
人種の違い、文化の違い、言葉の違い、貧富の差、自由人、隷隷という階
層の違い、また、字が読める人、読めない人など様々です。この様な違い
を超え、同じ主を信じていることだけによって、互いに受け入れあうことを
パウロは勧めたのです。これは、困難な働きでした。多くの教会で、問題に
なっていたのです。パウロはペテロに対して、この点に関して避難しました
ペテロが異邦人をユダヤ人の手前、退けるような行動をしたのです。
 違いを受け入れることは、信仰によらなければ出来ません。罪は、こと
さらに退けるように仕向けてきます。福音書によれば、違いこそ、神に
とって大切な賜物としてそれぞれに分け与えているものなのです
posted by sbbc at 23:51| 週報 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

7月12日 週報 日曜学校の働きに祈りを (音声メッセージなし)

「あなたは幼子と乳飲み子たちの口に賛美を用意された・・。」
(マタイ二一:一六)
  世は、どの時代でも子供を軽んずる傾向にあります。イエス様の時代も
律法学者や祭司たちは、子供のことは、眼中にはありませんでした。冒頭の
御言葉は、イエス様が、ロバの子の背に乗られて、王として、エルサレムに
入城された時の出来事です。子供達も大人の人々に混じって、イエス様を大
声で賛美したのです。すると、大祭司がイエス様に抗議しました。
大人に対してではなく、子供に対して不満を表したのです。なぜでしょうか
 今までこの様なことを、見たことがなく、子供まで巻き込んでいることに
驚いたのです。しかし、イエス様は聖書のことばを引用されて、あなた方が
信じている神が、認めていることを示されたのです。神は子供の心をも導い
ておられるのです。
 アメリカのある伝道者が、伝道集会の報告の時、「今日は、二人半の人が
救われました。」と言ったところ、聞いていた人が「大人の人が二人で子供
一人ですね」と応答しました。伝道者はすかさず、「子供が二人で大人が一
人です。これからの可能性は、子供のほうが大きいのです。」と。
 イエス様の周りには、常に子供だけではなく、あらゆる人々が集まってき
ました。特に軽んじられていた人々に目をとめられたのです。教会は、同じ
目線をもって、人々を招かなければなりません。
posted by sbbc at 23:47| 週報 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年07月07日

週報 愛は律法を全うする

「他の人を愛する者は、律法を完全に守っているのです。」
(ローマ書一三:八)
  
 神が私達に求めておられるのは、キリストのように、愛を動機として生き
 ることです。しかし、このことにおいても、罪の影響をうけます。神に受
 けいれられる愛とはどういうものなのか示すために、律法を与えられまし
 た。律法のうちに神の愛が啓示されました。同時に、人のうちには、神
 に受け入れられる愛はないことが明らかにされたのです。
  イエス様は、律法を廃棄するために来られたのではなく、成就するため
 に来られました。その愛は、神に受け入れられたことを宣言したのです。
 それ故、パウロは、「キリストを着なさい。」と勧めたのです。パウロは、
ガラテヤ人への手紙において「バプテスマを受けてキリストにつく者とさ
れたあなたがたはみな、キリストを身に着たのです。」(三:二七)明言
しました。キリストを模範として、生きるのです。
  一三章は、権威に従うように勧めます。それは、神を愛することです。イ
 エス様は、全ての権威に従われました。裁判も、十字架の死にいたるまで
 ローマ帝国の権威に従われました。それによって、多くの人々がイエス様か
 ら離れましたが、罪の代価が払われ、神の愛が全うされたのです。その愛は
 私達を滅びから救いだしてくださったのです。これがキリストの愛なのです。
posted by sbbc at 07:25| 週報 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

週報 愛の実践

「悪に負けてはなりません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。」
(ローマ書一二:二一)
  愛はキリストのからだの血です。聖書には「血のうちにいのちがある」
と啓示しています。確かに、血はいのちであることは、色々な譬えに使われています。例えば、「石油は日本の血の一滴です」と、石油の大切さを表します。
 愛は善と悪を見極める量りです。愛がなければ、人として、善を選びとることは出来ません。愛はギリシャ語で、「アガペー」です。善は「アガトス」
です。これから解ることは、愛と善は同じことばから派生しています。
これをしめしているのが、マタイ一九:一七以降の記事です。富める青年がイエス様に質問をします。「先生、永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたらよいのでしょうか。」イエスは彼に言われた。「なぜ、良いことについて、私に尋ねるのか、良い方はひとりだけです。」と答えられた。
「神は愛です。」と「善い方は一人だけです。」と言う表現は「愛」と「善」
が同じ方を指していることに気が付きます。それは、父なる神様です。救われて、神に受け入れられた者のうちに与えられた命は、十字架の愛が注がれているのです。
信仰により、聖霊によって、一人一人に注がれているのです。ですから、この愛によって、善悪を識別し、善に積極的に歩むことを勧めています。
posted by sbbc at 07:21| 週報 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年06月19日

週報 信仰の量りに従って

「大勢いる私達も、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。」(ロマ一二:五)
パウロは、教会を人のからだに譬えて「教会はキリストのからだであり、私達はその器官である」と多くの書簡に記しています。私達は自分がどの器官に属するかは、「神がおのおのに分け与えて下さった信仰の量り」によって、教えられていると教えます。
確かに、人のからだは、神によって創造されました。必要な器官は、神だけがご存知です。そして、その器官の役目もそのシステムも人は受け入れるだけです。同じように、キリストのからだである教会も、なにが必要なものなのかは、神がご存知です。
「信仰の量りによって」とは、
@ 教会はキリストのからだである、ことを信じる。
A 新しくされた私は、その器官の一つに召されている、ことを信じる。
B 自分はどの器官であるかは、主が導かれる、ことを信じる。
C キリストの愛に応えるために、与えられている賜物を最大限に用いる、信仰。
D 他の器官をも、同じように主によって与えられていることを尊重する信仰。比べ、競争し、誇るためではないのです。
E 奉仕は自発的であることが勧められている根拠です。
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2015年06月08日

週報 最初になること、それから行うこと

「良い木は良い実を結ぶが、悪い木は悪い実を結びます。良い木が悪い実をならせることは出来ないし、また、悪い木が良い実をならせることも出来ません。」マタイ7:17,18

今の季節は、様々な花が私達の生活を美しく彩ってくれます。それは、命の美しさを感じさせてくれます。仕事柄、いろいろな教会を訪問しますが立派な会堂の建物があっても、その中に何か物足りなさを感じます。花一つ生けてあるかないかで違うものです。教会は、命を感じる所であってほしいと常々思わされています。
 アジサイの木にはアジサイの花が咲きます。さつきの木には五月の花がさきます。これは、普通の営みで、何の不思議な事ではありません。命の変わらない営みなのです。イエス様はその営みは、人のいのちの営みも同じであることを話されたのです。
「良い木は良い実を結ぶが、悪い木は悪い実を結ぶ」と話されました。
また、「わたしはまことのブドウの木であり、枝がブドウの木についていなければ実を結ぶことができません。」(マタイ15:1,4)
 私達は、イエスに接ぎ木されることによって、良い木に、すなわち良い実を結ぶ者にされたのです。ですから、安心して、心を新たにされた者として、神に捧げて、みこころにそって歩めば良い実を結ぶのです。
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2015年06月06日

週報 神に受け入れられる霊的礼拝

「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物とし
て捧げなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」
(ローマ書一二:一)
  パウロは、救われたキリスト者の、最初にすべきことは、「捧げる」こと
 を勧めています。
一、 〇か一〇〇%か。
供え物は、神のものとして、受け入れて下さるものです。神のうちに迎え入れてくださって、はじめて、神の家族となるのです。例えば、夫婦として受け入れられて、互いの幸いな生活が始まることに、似ています。また、家族として互いに受け入れられて、家族の愛のうちに生きることができます。それは、神から、夫婦としての愛、家族としての愛が与えられているからです。それは、尊いものです。神に受け入れられることは、父なる神とイエス様の愛のうちに招かれることです。
ですから、捧げることは、祝福です。私達の全てを主にお捧げすることです。何一つ、自分のために残さないのです。手足はもちろんですが.心、意志など人格そのものを捧げるのです。一部だけをささげることは、物理的に不可能です。〇か一〇〇%かです。
二、 意志によって捧げる。
心から、積極的に喜んで捧げましょう。神を第一にすることです。
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2015年05月25日

週報 たましいの大牧者―イエス・キリスト

「あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいであり、
監督者である方のもとに帰ったのです。」(Tペテロ二:二五)
  聖書の中で、人を「ひつじ」に譬えて表現しています。千葉県君津市に
 マザー牧場があります。三月終わりごろ、久しぶりに行って来ました。以前
 とは、ずいぶん変わっていましたが、今でも、羊が沢山飼われています。
羊飼いと牧羊犬の息のあった働きも見ものでした。羊の性質は
@ 従順
A 忍耐強い
B 迷いやすい
C 羊飼いの必要
D 規則的に毎日水を必要とする。
E 毎日、牧草が必要
 イエス様は良い牧者です。(ヨハネ一〇:一一)
  良い牧者は、自分の羊をよく知っている。羊も羊飼いを知っている。決っして間違うことはありません。又、羊を守るために、自分の命さえ惜しまないのです。
 イエス様は、羊の門です。(ヨハネ一〇:七)
  「私が道であり、真理であり、いのちなのです。私を通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(ヨハネ一四:六)
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2015年05月17日

週報 主に仕える祝福

「わたしは全能の神である。生めよ。ふえよ。一つの国民、諸国の民のつどいが、あなたから出て・・・・」(創世記三五:J)
  
 先日、男子の青年が、教会を訪ねて来ました。話を聞けば「行き詰まっ
て、どうしたらよいかわからない。そして、相談する人もいないんです。」
と、ぼそぼそと話し始めました。どこまでが真実なのかはわかりませんが
両親も亡くなり、中学を卒業して、すぐに働かなければならなくなり、仕
事も転々とし、派遣の仕事で佐倉にきて働いていたが、契約が切れてしま
ったとの事。仕事も捜したがうまくいかず、途方にくれていると言うので
す。
 ヤコブの生涯は、目に見える所は、困難しか見えなかったのですが、主
がついておられた。ヤコブもまた、主に熱心に仕えました。主はどのよう
に導かれたでしょう。
@ 目的地である、ラバンの家に確実に到着した。
A ラバンの娘を妻に迎えることができた。
B ヤコブは、熱心に、知恵を尽くして、主に仕えるように忠実にラバン
の家畜を飼いました。
C ラバンの息子たちがねたむほどに、財産を持つように祝福された。
 主が味方であることは、何と幸いなのでしょう。
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2015年05月10日

週報 個人的に結ばれた主

「神が私とともにおられ、私が行くこの旅路を守り、食べるパンと着る着物を賜り・・・・こうして主が私の神となられるなら・・・・」
(創世記二八:S㉑)
  本日は「母の日」です。母と子の絆は一番強いと言われています。それ
 生まれる前から、母親は一年近く、子を育み、苦しみを通して、命を産み
 だします。それからも、一番近くで、深い関わりを持って愛情を注いでい
 くからでしょう。それよりも強い絆で結ばれているのが、主なる神である
 ことを、ヤコブは苦難を通して知りました。
  ヤコブは双子の兄弟の弟として、母親の愛をいっしんに受けて育ちまし
 母リべカは、なかなか子が与えられませんでした。せつなる祈りに、神が
 応えてくださって与えらたのですから、その愛情は大変なものでした。
夫イサクを欺いてでも、兄の長男の祝福をヤコブに与えようと、実行した
ほどでした
  しかし、それが原因となり、母親から離れ、一人で生きていかなければ
 ならなくなりました。彼は異国の地へと、旅だちました。その不安の中で
今まで見えなかった神を見出します。その後二〇年の歩みを通して、「私
の神」と呼べるほどに強い絆で結ばれました。「私の苦難の日に答え、歩
いた道に、いつも私と共におられた神」と告白するまでになりました。こ
の主は、時を経て今、主イエス・キリストとして現れてくださったのです。
posted by sbbc at 14:59| 週報 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

週報 あなたは、どこにいますか(魂のホーム)

「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしが、あなたがたを休ませてあげます。」(マタイ一一:二八)
   
  春、若葉が芽吹始め、美しい若草色の若葉が、私達の目を楽しませてく
れる季節です それに誘われて、人は旅に出ます。非日常的な中に、何か
を求めて趣くままに、家を離れます。そして、少々疲れを覚えて、家路に
着きます。
 その時、ホットして「ああ、家が一番落ち着くなあ」と心の奥でささや
く声に気づきます。それは不思議な経験です。
 聖書の中に、よく似たお話が書かれています。イエス・キリスト様は飼
う者のいない羊のように、弱っている人々をご覧になり、可哀そうにおも
われました。そして、「わたしのところに来なさい。わたしが、あなたがた
を休ませてあげます。」と言われ、人々を招ておられます。
 イエス様は、私達を見て下さっています。人が疲れている状態を、重荷
を負って、今にも倒れてしまいそうな人々を見守っておられます。休みを
求めてあえいでいる人々に、「ここに休み場があります。」と声をかけてく
ださっています。あなたには、この声が届いていますか。わたしたちの魂
のホームは神の懐です。「すべてのことが、神から発し、神によって成り
神に至るからです。」(ローマ書一一章三六節)
posted by sbbc at 14:42| 週報 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

週報 主の為に生きる

「わたしは彼らの神となり、かれらはわたしの民となる。」
(Uコリント六:一六)
   
  君津に住んでいる義理の兄が、八〇歳にもかかわらず最近、生き生きと
 暮らしています。先日も久しぶりに会ったのですが、以前とはまるで別人のようでした。
  三年まえに奥さんを亡くし、がっかりしているところに、火事になって、多くのものを無くしてしまいました。その時、君津を離れてしまいたいと口にしていました。しかし、一年前に、教会に導かれて、教会生活をはじめたのです。花道や茶道を教えていたこともあり、その教会の茶会に招かれたのがきっかけで、今や、手伝うようになり、いろいろと聞かれるようになり、 
 期待されることが喜びになっているようです。
  自分のために生きている時は、なぜか、沈んでいるのです。
喜んでよいはずなのに、実際は逆なのです。期待され、他の人のために
生きる時、喜びが湧き上がってくるのです。
 イエス様が死なれたのは、私達が、自分のために生きるのではなく、
よみがえられた方、すなわち、主のために生きることが出来るように
罪の縄目から救いだしてくださったのです。主は、私達に期待しておられ
ます。
posted by sbbc at 14:37| 週報 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年04月11日

週報 復活の朝―罪のないものは生きる

「この方が死につながれていることなど、ありえないからです。」
(使徒二:二四)
   イエス様が復活されたことによって、公に宣言されたことは何なのでしょうか。
@ イエス様は罪を持っておられない方であり、罪を犯されませんでした。
 イエス様は真理の方であり、語られた事、行われたことはすべて正しいことが明らかにされました。それは、「罪の払う報酬は死である」ことが、はっきりと示されたのです。今までの人は、全て死にました。それは、全ての人が罪人であったのです。例外はないのです。これは、神がおられることを表しています。何故なら、罪は神に対して犯すものであるからです。神がおられなければ罪もないのです。
A 義と認めて下さる者の幸い
 律法を行うことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。そこには、何の望みもありません。しかし、律法とは別に、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それは、すべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。(ロマ3:㉑㉒)
 すなわち、義と認められることは、罪なしと宣言して下さることなのです。その人は、死から解放され、復活に預かるのです。
posted by sbbc at 21:30| 週報 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年03月30日

週報 棕櫚の日曜日―王として公に表す

「しゅろの木の枝を取って、出迎えのために出て行った。そして大声で叫んだ。『ホサナ。祝福あれ。主のみ名によってこられる方に。イスラエルの王に。』」                   (ヨハネ一二:一三)
   イエス様が王として、ロバの子の背に乗られて、エルサレムに入城されることは、遠い昔、ゼカリヤによって、預言されていました。その時、イスラエルの民は、神殿再建の中半でした。途中、他民族の妨害によって、挫折していました。諦めかけていた時、神様は二人の預言者を遣わされたのです。その時、民は主に励まされて起ち上がったのです。以前と同じように妨害はありました。しかし、民は正当手段で対抗し、再建を続行したのです。その戦いの中で、預言者ゼカリヤは「あなたの王が来られる」と主のことばで励ましたのです。新しい時代の到来を語ったのです。
   今日のキリスト者にとって、現在置かれている状況は同じです。それは神殿再建の途上であることです。彼らが奮い立ったように、神様のお働きをやり遂げることです。もう一つ、学ぶことは、主の御業が行われる時、必ず、妨害する者が出てくることです。イエス様が公に表さた時妨害は最大の力で攻撃してきたのです。
今週は受難週です。イエス様は最も激しい攻撃を受けられました。しかし、神様の力はそれを打ち破られたのです。イエス様は十字架を担われました。そして、救いの道を整えてくださったのです
posted by sbbc at 16:32| 週報 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年03月26日

週報 目にみえない現実を見る大切さー啓示

「私達も盲目なのですか。」(ヨハネ九:四〇)
  
   今の時代は、「仮想」、「バーチャル」世界に人は多くの時間をささげているといっても過言ではないでしょう。電車に乗っても、道を歩いても老若男女問わず多くの人々が、スマホに目を注いでいます。現実の社会ではない社会に、自らを託しています。しかし、そこで起こっていることは、現実には自分と関わることはないのです。
   しかし、見えない世界が自分にとって、深く関わっている現実があるのです。
   イエス様は、「私はさばきのために、この世に来ました。それは、目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。」と語られ、聞いていたパリサイ人が「私たちも盲目なのですか。」と尋ねた。「もしあなた方が盲目であったなら、あなたがたには罪はなかったでしょう。しかし、あなたがたは、今、わたしたちは目が見えると言っています。あなたがたの罪は残るのです。」(ヨハネ九:㊴〜㊶)と答えられたのです。
   この場面は、実際盲目の人が、イエス様を神様が遣わされた救い主として、見えないイエス様の本当の姿を見たのです。一方、目は見えていたパリサイ人は、人としてのイエス様は見ていたが、救い主のイエス様は見えなかったのです。この違いは、現実に、永遠に、二人を分けたのです。
posted by sbbc at 10:24| 週報 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年03月15日

週報 御霊の実を収穫するにはー御霊に導かれて歩む

「あなたがたが新しく生まれたのは・・・・朽ちない種からであり、いつまでも変わることのない、神のことばによる。・・・あなたがたに宣べ伝えられた福音のことばがこれです。」(Tペテロ一:二三〜二五)
     実を収穫するには、どうすればよいのでしょうか。その方法は、私達が生活の中で学んでいるものです。聖書信仰は、新しい思想を身につけることではなく、新しい命に生まれ、そのいのちに生きることです。
一、土を耕す。
種を蒔くためには、良い土の中に蒔かなければなりません。霊的な土は、「自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。」(ガラテヤ五:㉔)にあるように、悔い改めによって、心を耕し神にこころをあけわたすのです。
二、種を蒔く。
霊の種はみことばです。神が御霊を通して与えて下さった福音のことばです。信じることによって、御霊なる神が私達の心にみことばを蒔い                       
てくださるのです。(マタイ⒔:㊲)
三、水を注ぎ、雑草を抜き、手入れをする。
みことばに聞き、日々悔い改めつつ、みことばにゆだね従って歩むのです。(Tコリント⒊:E)
  四、実を収穫する。
posted by sbbc at 12:34| 週報 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年03月08日

週報 愛による自己抑制ー自制

「あらゆる努力をして信仰には徳を・・・・知識には自制を自制には忍耐を・・・。」(Uペテロ一:五、六)
  
   柳田師によると、「節制(文語訳)とは、欲情の統制である。自らを能うかぎり高くし、能うかぎり強く主張し、止まるところを知らずに膨れ上がろうとする醜悪な自己自らの抑制である。
しかし、それは、異教的に見られるような、自己自らの知見や意志による自己自らの自我の抑制ではない。このような自己抑制は、必ず失敗する。もし、成功すれば、結果はなおさらおそろしい。なぜなら、それこそもはや手のつけられない自己義認、自己神化への道を開くからである。
キリスト教の節制は、このような自己自らによる、自己自らの自我の抑制ではなく、御言の知識において、わたしたちにたえず語りかける、キリストの霊による自己自らの自我の抑制である。言い換えれば、生ける御言である、キリストの臨在のもとで、不可避的に起こらざるをえない、聖なるおそれによる自己抑制である。しかも、彼の裁きへのおそれというよりは、むしろ彼の愛へのおそれによる自己抑制である。
人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。また、これよりも大きな自己抑制はない。小羊の愛は、もっとも深い本質において自己抑制である。」(ペテロの手紙の研究より)
posted by sbbc at 13:53| 週報 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年03月01日

週報 主が最も求められるものー誠実

 「あなたがたが私から学び、受け、聞き、また見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神があなたがたとともにいて下さいます。」(ピリピ四:九)
  
  「誠実」とは、辞書には「真実」「正直」とあります。英語にはintltyとあります。「そっくり、元のまま」と説明しています。これは、神様が人を創造された時、持っていた神の形と同じものということを示しているのではないでしょうか。人は誠実な者として生かされていたのです。しかし、契約を破った罪によってその形を失ってしまいました。
   また、「言」が「成」って「実」をつけるとも読めます。辞書には「口にする言葉と心が一致している」との解説があります。人は心と口にする言葉が常に一致することはありません。しかし、神様は常に一致しています。そして、語られる言葉は一〇〇%実現するのです。しかも、良い実となるのです。ですから、神に従う時に、平安が与えられるのです。
   イエス様は「自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまで従われました。それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。」(ピリピ二:8、9)これが、イエス様の父なる神様への誠実です。それ故に、私達は救いの恵みに預かりました。家族や友人の救いに必要なものは、神様に対して誠実であることです。 
posted by sbbc at 14:22| 週報 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年02月22日

週報 赦しの原点ー神の寛容

「私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか。」(マタイ一八:三三)
  
  「一般に、クリスチャンは人使いがあらい、と言われる。確かに彼らは、すべてを奉仕と心得ているので、良く働く。彼らの勤勉は賞賛に値する。しかし、彼らは、ともすれば、自分もこれだけ奉仕し、これだけ勤勉に働いているのだから、他人も同じだけ奉仕し、同じだけ勤勉に働くのが当然だと、考えがちで、その結果、人使いが荒くなりやすい。しかし、これはクリスチャン的利己主義であるというのが世評である。わたしたちのおちいりがちな欠陥を鋭く突いた、正論といわなければならない。
   自らに対して厳格な人は、他人に対しても厳格になりがちである。わたしたちは、自己自らに対するかぎり、いかに厳格に振る舞っても、厳格すぎるということはあり得ない。しかし、他人に対しては、逆に、いかに忍耐深く、寛大に振る舞っても、寛大すぎるということはないのである。」
(柳田友信著ペテロの手紙の研究より)
   イエス様は、神様が私達に対して、寛容を示して下さり、払いきれない負債を、免除して下さったことを常に覚えて他の人に対応することを教えられました。「寛容」とは辞書には「他人の罪を厳しく攻めぬこと」「人をゆるし、受け入れること」とあります。
posted by sbbc at 21:31| 週報 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする