2017年02月16日

2月12日 「神のご計画」


「神のご計画」
 「あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。」(創世記12:1)

 先週の総会において、ニュータウン教会の働きを私が断念することを、申し出ました。今まで、独立を目指して祈り支援してきましたので、戸惑う方もおりましょう。そのために、主の導きを話す必要を覚えました。
 ニュータウン教会の働きは一五年に及びます。その間、伝道者をはじめ、佐倉教会も教会形成を目指して祈り、進めてきました。ですから、招聘の作業を進めていく中で、その計画を継続することが、主のみこころと信じて、私達がしばらく引き継ぎ、次の伝道者にバトンタッチできればと考えました
そうすれば、伝道者のこれまでの働きが報われると考えたのです。
 しかし、神のご計画は違う方行を示されました。アブラハムは行先を知らずに出て行きました。その時、示されたのは、ここに留まってはいけないということだけでした。また、伝道者パウロも、自分の伝道地の計画を変更しなければなりませんでした。その時の事情は、聖書には何も書かれていませんが、「聖霊によって、みことばを語る事が禁じられた。」というのです。私達は、「つくられたもの全てに福音を語る」ことを聖書の中に見ます。しかし、場合によって、禁じられることがあるのです。その時にはパウロは理由がわかりませんでしたが、そこには、綿密な神のご計画があったのです。
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2月5日 「守りの神」


「守りの神」
 「神があなたがたのことを心配してくださるからです。」(Tペテロ5:7)

 「待つ」ことは、勇気のいることです。私達は、伝道者の応えを待っています。その間、いろいろなことを考えさせられます。「待つ」ためには信仰が試みられます。
 聖書の中に、「待つ」ことで、勝利を得た人もおり、失敗した人もおります。イスラエルの最初の王として立てられたサウルは、預言者サムエルのことばを信じて待つことに失敗しました。その結果、王の座から引きずり降ろされました。(Tサムエル13:13、14)
戦いに出る時、祭司によって、祭壇に捧げ物をしてから出発することになっていたのですが、サムエルが七日待つように告げていたのですが、目の前の敵を恐れて、七日目にサムエルに代わって、してはならない捧げ物をサウルは捧げたのです。そして、捧げ終わった時、サムエルが来たのです。サウル王はサムエルを待てなかったのです。その結果、自分だけではなく、家族すべてに主の祝福から退けられたのです。
ノアは、主の声を待ちました。雨が上がっても、鳩が帰って来なくなっても、地が乾いたことがわかっても、箱舟から出ることはなかったのです。
「出なさい。」との声を聴いて、ノアは箱舟から出たのです。自分の判断に頼ることなく、「入る」のも、「待つ」のも「出る」のも主の声に従うのです。
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2017年02月04日

1月29日 「伝道者のこころ」



「伝道者のこころ」
「私はあなたがたのたましいのためには、大いに喜んで、財を費やし、また私自身をさえ使い尽くしましょう。」(Uコリント12:15)

 教会は新しい牧師をどのようなこころぞなえをして迎えれば好いのでしょうか。伝道者パウロは、教会の土台を据える働きをしました。何もない所から、福音を伝え、救われた人々を集めて、教会の土台を築きました。その時、様々な困難に遭遇しました。その中でも、教会が伝道者を支えることが出来るように心を砕きました。
 そのために、伝道者の思いを知らせました。パウロは、教会すなわち教会の人々のたましいのために、持てる全てを使っていることを伝えました。その信仰は「受けるよりは与える方が幸いであると言われたみことばを思い出すべきことを、私は万事につけ、あなたがたに示して来たのです。」(使徒20:35)の実践でした。彼は、文字通り全てを主に捧げました。結婚もしないで、家庭も持たず、定住しないで、建てあげた教会も主にゆだねて、敵のいるまっただ中に飛び込んでいきました。そして、最後は囚われの身になり、自由も捧げ、最後に命をも捧げたのです。
 マケドニアのキリスト者は、そのパウロの姿を見て、貧しさにもかかわらず、喜んで、持てる者をもって、力以上に、聖徒たちを支えたのです。伝道者を支えることは、大切な伝道の働きなのです。
posted by sbbc at 16:58| メッセージ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

1月22日 「神と共に歩むノアの恵み」

「神と共に歩むノアの恵み」
 「あなたとあなたの全家族は箱舟に入りなさい」(創世記7:1)

人は地の面にふえ、その悪は地にはびこり、世は乱れて、暴虐が地に満ちた時、悲しみの神の御目は義人を求めて、地上をくまなく見まわされ、あわや、暗く閉ざされようとした時、ノアの姿に辛くもその愁眉は開かれたのです。ノアなかりせば・・・いや、それ以上にこのたった一人のノアを認めたもう神なかりせば・・・と感慨深いものがあります。
もとより、ノアがただしく、かつ全き人であったと言われているのは彼が神のごとく一点の曇りも、欠けもなかったということではありません。ただ、彼が意識する限り、責められるところがないように、努めたということです。彼の目は恥ずべきことをして、下を向いたり、ひそかな、いやしい野心をもって周囲を盗み見したりしないということです。彼の人生の姿勢は真っすぐに神に対して、その瞳には神の正義が映っていたということです。あの当時、義人はノアのみでした。さらば、今日、主の御目をお喜ばする者は、はたして何人いることでしょうか・・・・。
イエス・キリストは、主の日はノアの時と同じようですと告げられました
 また、その時「地上に信仰が見られるでしょうか。」と心配されています。
 ノアは箱舟を造る恵みに預かりました。その、箱舟によって、救われたのです。これは「教会に集めよ」との恵みのメッセージです。
posted by sbbc at 16:56| メッセージ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする